船場の記憶

丼池(『どぶいけ』と読みます。)の問屋街

子どもの頃、丼池(どぶいけ)は布の町でした。

丼池のアーケード後にできたサイン。
丼池のアーケード撤去後にできたサイン。
かつてこの通りにはアーケードがありました。撤去されたあとに作られたものです。もうボロボロで、30年以上経つのでしょうか。

船場の丼池といえば、今では 萬栄 のビルを思い浮かべる人も多いかもしれません。
一般のお客さんでも買い物ができる、いわば問屋の小売店のような店です。

ファンビ寺内やプロルート丸光などと同じように、問屋の商品を一般客にも販売する店として知られています。
いわばダイエーのような量販店とは少し違う、問屋街ならではの店でした。

しかし、私が子どもの頃の丼池は、今とは少し違う町でした。
そこは繊維の問屋が並ぶ、商売の町だったのです。


布のロールが並ぶ町

店先には洋服地のロールが並び、布ばかりの町という印象がありました。

丼池問屋街の生地売り屋さん。
今もロールで生地を販売しています。でも少なくなったなぁ。

店の奥では、そろばんを弾く音が聞こえていました。
今のようにパソコンはなく、帳面とそろばんで商売をしていた時代です。

丼池問屋街。中央大通り沿いのサイン。
まだ生地売り屋さんも少し残っています。中央大通りを望む。

店はどこも間口が狭く奥に長い、いわゆる「うなぎの寝床」のような造りでした。

丼池の問屋街は少し独特な雰囲気がありました。
一般のお客さんが気軽に入る店ではなく、「一見お断り」のような店も普通にありました。
もともと業者同士の商売の町だったからです。


オート三輪の走る通り

通りにはオート三輪がよく走っていました。
とくにマツダのT2000が多かった記憶があります。

荷台には布のロールや箱が積まれていて、
問屋から問屋へ荷物を運んでいました。

丼池にはアーケードがあり、昼間でも少し暗い通りでした。
夜になると店が閉まり、人通りも少なくなって、
アーケードの下でホームレスの人たちが寝ていたのを覚えています。


丼池診療所

私は子どもの頃、鼻血をよく出す子どもでした。
そのため丼池にあった耳鼻科の「丼池診療所」に通っていました。

たしか今の丼池繊維会館の二階あたりにあったように思います。

丼池繊維会館外観。南側、
このビルの2階に診療所がありました。
丼池繊維会館南側エントランス。
この階段を歩いて上がって診療所に行きました。

船場が一番元気だった頃

船場が一番活気があったのは、昭和50年代だったように思います。

その後、バブルの頃になると街の様子は大きく変わりました。
銀行に勧められてビルを建てた店もありましたが、その後店をたたんでしまったところも多かったように思います。

ちょうどその頃、私は大学四回生でした。
子どもの頃から見てきた船場の町が少しずつ変わっていくのを、学生の目で見ていた時期でした。


今の丼池

今では街の様子もずいぶん変わりました。
それでも、あの頃の丼池には確かに問屋の町の空気があったと思います。

街は本当に変わってしまいました。
嘆くのではなく、これからの変化を楽しもうと、最近は思うようになりました。

とはいえ、あまり楽しい記憶ばかりでもありません。
この「船場の記憶」は、もう少し続きます。

この記事の著者
花菜(hana)/井上 宏
大阪市中央区・船場エリアで50年以上続く花屋「花菜(hana)」の代表。
1級フラワー装飾技能士として、開店祝い・法人向けフラワーギフト・
日常の花贈りまで幅広く手がけています。

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